【新世紀黙示録】
(story.25)べつの道
ヒッピーウッズに朝が訪れた。
太陽が水平線から顔を出し、朝日が黄色い木漏れ日となって森全体に注ぎ込む。
ウッドストック農場では数羽のニワトリが一日の始まりを告げていた。
エレンはゆっくりとまぶたを開き、羽毛布団を押し上げた。ズキズキする頭を押さえ、辺りを見回す。
そこは慣れ親しんだ自分の部屋だった。いつも通り壁の穴から差し込む朝日が、自分と丸テーブルに置かれた古いラジオを照らしている。
毎朝目にする見慣れた光景。それを見て、エレンは昨日あった事の顛末を思い出した。
そっと起き上がり、床に足をつける。左足の腿と右腕には包帯が巻かれていたが、なぜか痛みはなかった。
階段を下り、洗面所で顔を洗う。ふと割れた鏡を見ると、そこには元の栗色の瞳に戻った自分が映っていた。しかしその瞳は、心なしか以前より濁って見えた。
「起きたんだ」
横から声がした。早朝の薄暗い廊下にアンナが立っている。アンナは背後の玄関を親指とアゴで差し、低い声で言った。
「よかったね。テルたちまだいるよ」
エレンは胸を押さえた。テルやジョージ、カーネルの姿を思い浮かべると、死んだシベリアを思い出し胸が痛んだ。
彼らが現れなければ、シベリアや村の人々は死なずに済んだかもしれない。
そんな考えが一瞬頭をよぎった。そしてエレンは下唇を噛んだ。以前の自分なら考えもしないことだった。
「それで?あんたはどうすんの?」
唐突にアンナが訊いた。
「テルたちと旅するのかどうか。あんまり考えてる暇はないよ」
アンナの言葉の意味がしばらくエレンにはわからなかった。面食らうエレンにアンナはため息をつき、長老婆が旅にエレンを同行させるようカーネルに進言したことを話す。
エレンは話を飲み込み、息を飲んだ。突然開けた外の世界への道に心臓が高鳴る。森を出て早々地下に潜るという長老婆の案は、正直エレンとしては賛同しかねていた。外の世界を旅できたらどれだけいいかと思った。しかし、同時にミューの顔が脳裏に浮かんだ。
「あんたはどうなの?」
エレンの戸惑いを断ち切るようにアンナは訊いた。
「あんたの意思はどうなの?人の意思じゃなく、あんたの意思」
アンナの声色は相変わらず低かった。
エレンはうつむいていたが、腹の内はとうの昔に決まっていた。しかし、ミューへの恩義がある以上、本心を口にすることは憚られた。そんなエレンの内心を見透かしたように、アンナは言った。
「親の言いなりになることが親孝行ではないんじゃない?せっかく自由に動ける身体があるんだから、やりたいことやった方がいいよ」
「それは……でも」
しどろもどろするエレンに、アンナは深々とため息をついた。
「主体性のないやつね。自分の事くらい自分で決めな。私、あんたのそういうとこ嫌いよ」
アンナは愛想を尽かし、踵を返して診療室に帰っていった。
エレンは再び床に視線を落とし、下唇を噛んだ。背後で立ち尽くすエレンに、アンナは小声で言った。
「私は一緒には行けないから、テルの子守りしてあげなよ」
アンナはクスッと笑い、診療室に入っていった。
しばらくしてエレンは診療所を出た。そして、村の門の人だかりを見て立ち止まる。そこには見慣れた顔が並んでいた。
ミューはエレンを見るなり駆け寄り、「もう大丈夫なのかい?」と心配した。
エレンはうなずき、包帯の巻かれた手足を動かしてみせた。そうしているうちに異変に気付く。銃で撃たれたわりには、あまりにも痛みがなさすぎるのだ。
エレンは急いで丁寧に巻かれた包帯を解いた。そして愕然とした。手足共にあった銃創が、わずかな窪みを残して完全に塞がっているのだ。
「それがアトミック・ソルジャーの能力の一つだエレン。高い治癒力。心臓や脳みたいな急所じゃなけりゃ、傷は並の人間より早く癒える」
カーネルが歩み寄った。
エレンは目を丸くして自分の足を見つめていた。その隣ではミューが苦虫でも噛むように塞がった傷跡を睨んでいる。
「今回のことでわかったろう。エレン、お前さんは普通の人間とはちょっと違う。自分の正体が知りたくはないか?」
ミューは細く尖らせた目をカーネルに向けた。その目を見て、エレンは包帯を巻き直し立ち上がった。
「カーネルさん、もう少しだけ待ってもらえませんか?」
エレンが言い終わると同時に、ミューはエレンの肩を揺さぶった。
「エレン、何度も言うけど森の外は……」
ミューは唐突に口をつぐんだ。苦い顔で、目を背けるエレンの瞳を見る。その栗色の瞳はわずかながら以前よりくすんで見えた。
「待つのは構わんが……エレン、お前さんは帝国に正体を見られ、あまつさえ兵を殺した。今後は追われる身になるだろう。脅すわけではないが、長老婆たちと行くなら、地下からはもう出られなくなると思った方がいい」
カーネルは警告した。
エレンはうなずくと、ミューの手をすり抜けて門に立つ子鹿の元へ駆け寄った。聖域で生贄になるはずだった子鹿だ。その周りには、長老婆や農夫、ピョートルやシリウスの姿があった。
「ライカのとこへ行くのよね?」
エレンが皆に尋ねた。
長老婆はこくりとうなずく。
「わたしが行ってもいい?」
エレンは農夫から子鹿の鎖を引き取り、シリウスを伴って村を出た。
その頃、沈んだ埠頭で一人の少年が目を覚ました。少年は冷たい海水から身を起こし、辺りを見回す。前方には鬱蒼とした森が、遥か後方には数時間前に戦闘が繰り広げられた灯台島が見えた。
「ぼくは……助かったのか」
シルバは身震いした。まだ夜が明けたばかりで空気が肌寒く、濡れた服も手伝って砂漠の日照りが恋しかった。仲間たちはおそらく助からなかったのだろう。助かっていたとしても、腰にある二丁のハンドガンだけで仲間を探しに森をうろつくのは危険だった。
「早く森を抜けなければ……」
シルバは海岸線に沿って歩き出した。
エレンはシリウスと子鹿を連れて森を歩いた。首輪を外された子鹿は、シリウスを警戒してか一歩離れたところにいたが、はぐれることなくついてきた。コケを踏み、枝を掻き分け、倒木を飛び越える。エレンはシリウスの案内で、決められた一本道を行くように広大な森を進んだ。そのうちエレンは思い出した。
(そっか……ここ、初めて村を抜け出した時に通った道なんだ)
道の様子は7年前とほとんど同じに見えた。変わったことと言えば、自分とシリウスが大きくなったことと、シベリアがいないことだった。
「なつかしいね」
エレンはぼそりと囁いたが、シリウスからの反応はなかった。
歩き続けること15分、エレンたちは沈んだ埠頭に着いた。灯台島まで伸びる一本道を通り、盛り上がった島の山道を登り、頂上にある灯台を目指す。
灯台の根元まで着くと、そこには既にライカと親鹿が待ち構えていた。
ライカはエレンたちを見るなり、苔の生えた倒木から腰を上げた。
子鹿は既に親鹿の元まで走っていた。
「ひとまズ、これで条件は満たされたナ」
ライカは腰の袋から小さな鍵を取り出し、残された左手で器用に灯台の入り口を開けた。
すると、一秒と経たずにゴランとイリーナ、村の子どもたちが外へ飛び出してきた。村の子どもたちはエレンを見るなり泣きながらその胸元まで走った。その幼い子どもたちを掻き分け、ゴランが号泣しながらエレンに飛びついた。灯台の入り口で同様に泣いていたイリーナは、わずかに顔を引きつらせ泣き止んだ。
「……いいんですか?」
エレンは子どもたちをあやしながらライカに訊いた。
「村で聞きました。子どもたちを解放する条件が、あとひとつ……」
「ソレはもうよい」
ライカはきっぱりと言った。
「でも、わたしたちはあなたの仲間を何度も」
「ソレは仕方のないことダ。生きる為の狩猟は誰にだって必要だろう。ワシが許せなんだのは、死んだ人間ドモが繰り返していた無益な殺生ダ。本来なら予定通り森から去ってもらウところだガ、儀式ヲ行っていた人間ドモは皆死んダ。ひとまず不問だろウ」
ライカの言葉に、エレンは息を飲んだ。
「……じゃあ……」
「ウム……ひとまず……オマエたちの居住を認めてやってもいい」
エレンは子どもたちを抱きしめた。村人たちと共に地下へ潜るか、それともテルたちと旅するため一人別れるか。そこへ「これまでと変わらない毎日」という第三の選択肢が加わり、エレンにのしかかっていた重圧はすっかり解かれた。
感極まるエレンにライカは忠告した。
「勘違いするナ。これまで通り人間が暮らせルのは村の中だけだし、森ヲ歩けばクリーチャーに襲われル。それは変わらなイ」
「それでいいよ。でもなんで……?」
ライカは口をつぐんだ。しばらく何やら思慮した後、左手を自分のうなじにまわしてホックを外す。
「人間も全てが悪ではナイと理解しただけダ」
ライカは被っていた兜をそっと持ち上げ、素顔を露わにした。
エレンは絶句した。子どもたちも背後を振り向き、顔を引きつらせる。
そこには、犬の頭部を持つ巨大な鎧が仁王立ちしていた。
鎧の襟元から犬が顔を出していると言うよりは、生首が乗っかっていると言った方がいい。鎧の中から大小様々なパイプが伸び、犬の頭部の切断面へ繋がっている。幸いにして、切断面はかろうじて残された茶色い毛に隠れていた。
「見ろ、この姿ヲ。旧世紀の人間どもの悪魔の所業ダ」
ライカは憎悪に満ちた声で言った。犬の頭部は既に腐敗しており、腹の発生器から声を出していた。
「バイオロイドというやつダ。犬の頭をロボットに移植し、脳として機能させるという馬鹿げた実験の産物ダ。旧世紀ノ科学者どもがなぜそんな実験を行ったのか、檻の中で生まれ育ったワシにはわからン。だが確かなのは、当時ノ科学者どもは正気じゃなかったということダ。ワシは気づけば、生前の記憶ヲ引き継いだまま、首から下がすげ変わっていタ」
ライカは息を荒げ、欠けた兜をかぶり直した。
「今一度言うが、ワシは決して人間ヲ許したわけではナイ。今後も許す気はナイ。ただ人間も全てが悪ではナイと理解しただけダ」
ライカは遥か彼方を指差した。村のある方角だった。帰るよう促されているのだとエレンにはわかった。
エレンは子どもたちを引き連れ歩き出したが、なぜかシリウスだけはついて来なかった。エレンが背後を振り返ると、シリウスはエレンに背を向けてライカの元へ歩いてゆく。
「シリウス、帰るよ」
エレンの呼びかけにも応じず、シリウスは歩を進める。
「シリウス!」
「来るべき時が来たのダ。人間ヨ」
ライカが言った。
エレンは生唾を飲んだ。いつか来ると思っていた時が、ついに来たのだと悟る。しかし、それはあまりにも突然すぎた。このまま別れては一生会えない気がして、エレンは確かめるように言った。
「……またね」
シリウスからの反応はなかった。
エレンがシリウスに背を向けると、ライカがぼそりと呟いた。
「人間とクリーチャーはわかりあえなイ。一度森に帰れば、共に暮らすことは二度と出来ン」
エレンは振り返った。シリウスは着々とライカの元へ歩を進める。その背中に、エレンは抱きついた。ふさふさの白い毛が羽毛布団の様に柔らかかった。
「……また明日ね」
エレンはシリウスの毛に顔をうずめながら呟いた。すると、シリウスは無表情でエレンに振り返った。エレンは顔を上げた。それと同時に、シリウスはエレンの左腕に唸りながら噛み付いた。
エレンはとっさに飛び退き、噛まれた左腕とシリウスを交互に見る。
シリウスは悲しげな目をしてライカの元へ走った。
「そやつは人間に母と兄ヲ殺されたのダ。人ヲ恨むなという方が無茶な話ダ」
ライカは同情したように言った。
「帰るがよい人間ヨ。帰り道は作ってあル」
ライカはこれまで抑えていたクリーチャー特有の殺気を解き放ち、エレンたちを追い立てた。
エレンは左腕を抱え、下唇を噛んだ。
昨晩の祭りとは一転。村の人口は一晩で3割まで激減し、塀の中は閑散としていた。
カーネルはミューを伴って診療所二階の空き部屋に腰掛け、広場で縄にかけられている帝国兵から拝借した円盤型映写機をいじっていた。映写機は先ほどから振動しており、誰かが通信してきているようだった。ヴラジで同じものを見たカーネルには、通信相手がなんとなく想像できた。
通信の準備が整うと、ミューは部屋のカーテンを閉め、祭りで使う仮面を被った。カーネルもダスターコートを脱ぎ、仮面を被る。
「いくぞ」
カーネルは映写機のボタンを押した。すると、映写機の上に青白いホログラムが映し出された。ホログラムは待ちくたびれたように首を鳴らし、まつ毛の濃い目でカーネルを一瞥する。
《ふーん……あの森には人が住んでるって聞いてたけど、本当だったようね。それに映ってるのがワタシの部下じゃないあたり……捕獲部隊がやられたってのも本当かしら?》
大連帝国ジーリン方面軍司令 チェン・ジエは、将官服にこれでもかと付けられた勲章を輝かせながら言った。
《あなたたちは誰?ワタシの部下は……》
「その前に、まずこちらの質問に答えてもらおう。お前さん、帝国のお偉いさんだな?なぜアトミック・ソルジャーを付け狙う?帝国は既に充分すぎる軍事力を有している。人員と時間を割いて、アトミック・ソルジャーひとりを追いかけ回す理由は何だ?」
カーネルが訊いた。
チェンは「ふふん」と鼻を鳴らし、アゴを掻いた。
《あなたが誰か知らないけど、わかってないわね。アトミック・ソルジャーはいわば、新世紀に適応した新人類。研究が進めば、人類にとってどれだけの利益になるか……》
カーネルはニッと笑った。
チェンは一間置き、ふと思い至った。
《そうか、ワタシたちより先にアトミック・ソルジャーを捜して森に入った連中がいるって聞いてたけど、もしかしてあなたたちかしら?》
「半分正解で半分ハズレね」
ミューがボソッと呟いた。
チェンは納得顏でうなずいた。
《……ってことは、あなたがアトミック・ソルジャーの親ね?一緒に地下から出てきたってローゼンから聞いてるわ。いや〜残念ね。そんな仮面被ってちゃ人相書き描けないわ》
チェンは小馬鹿にするように言った。一個小隊を壊滅させられたにも関わらず、チェンには余裕が見えた。コーヒーをすすり、和んでいる。
《まぁでも……居場所がバレた以上、ずっと森に居座ってるわけじゃないんでしょ?そんなの危険すぎるものねぇ、あなた方もアトミック・ソルジャーも》
チェンはコーヒーカップを置き、目を細めて微笑した。
《あなたたちがどこへ向かってるのかは知らないけど、ジーリンへ来るのなら、せいぜい気をつけることね。敵はワタシたちだけじゃないから……》
その時、誰かが階段を上がる音がした。
ミューが即座に映写機の電源を落とし、チェンが消えると同時に、部屋の戸がノックされる。
「ミューさん、帰ったよ」
扉の向こうにいたのはエレンだった。
外からは子どもたちの歓声が聞こえた。どうやら無事に村まで帰れたようだ。
エレンはなぜか部屋に入らなかった。廊下に立ったまま、シリウスが森に帰ったことをミューに話す。
ミューは黙々と話を聞いていた。朝見た時からシリウスの様子がおかしいとは思っていた。
しばらく沈黙が流れた。やがてエレンは手のひらと額をドアにつけ、ミューに決意を告げた。
「ミューさん、わたし行くね」
ミューは何も言わなかった。背後を振り向くとカーネルがコーンパイプを吹かしている。
ミューは手のひらをドアに押しつけた。ドアを一枚挟み、向こう側のエレンにぼそりと呟く。
「……好きにしな」
エレンはそれを聞くと、廊下を駆けていった。
ミューはしばらく手をドアに張り付けたまま、ジッとしていた。やがて、吹っ切れた声で背後のカーネルに話す。
「まぁそういうことだから……エレンを任せたよ。あの子、菓子でつられたら知らない人でもホイホイついていきそうだからね」
[AM:5:00]
太陽はすっかり東の空に昇り、眠りについていた森が少しづつ目を覚ました。
テルをはじめとする旅人たちは朝日の差し込む村をせわしく行き来し、ランドクロスに荷物を積み込んでいた。
「短い間でしたが、お世話になりました」
カーネルは長老婆と握手した。
長老婆は晴れやかな顔だったが、その表情にはどこか曇りのようなものが垣間見えた。杖の持ち手をこまねき、うつむく。
「さっきの話だけどね、カーネルさん。やっぱり力になれるかどうかわからないよ?こんな30人足らずの村じゃ……」
「ヴラジのご老人にも同じことを言われました。大丈夫です。今回はこちらが一方的にお世話になったわけですから、気が向いたらで結構です」
カーネルは柔和に言った。
「ただ、いつその時が来るかわかりません。早ければ半年後……いや、数ヶ月後かもしれません。できれば早めに村の人々に話を通しておいてください。『計画』に参加するか否か……」
長老婆は自分の倍ほども背丈のあるカーネルを見上げ、「最善を尽くすよ」と微笑んだ。
ランドクロスはおよそ2日ぶりに息を吹き返し、空へと突き出したマフラーから煙を吐いた。
旅人たちは荷物を詰め終わると、各々が名残惜しそうにランドクロスに乗り込んだ。
ゴランとイリーナは、なかなか村の子どもたちと別れたがらなかった。灯台に囚われている間、彼らにも色々あったようだ。
ジョージは巨大樹の木の葉を見上げた。この村で過ごしたひと時は、まるで帰郷したかのような安心感のあるものだった。
乗車すると車内には既に、ゴランとイリーナ、ラビとレフ、それにテルがいた。
テルは他の子どもたちと同様窓から外を眺めていたが、その目は森の景色というより、これから向かう外の世界を見ているようにジョージには見えた。
「ハァ……ハァ……」
エレンは肩で風を切り、診療所から飛び出した。白いローブを身に纏い、大きな皮カバンを肩にかけ、右手に古いラジオを持っている。
「まだ持ってたのか……」
農夫がぼそりと呟いた。
ランドクロスはエンジンをかけ、門の前で出発の時を待っていた。門の周りには村人たちが勢ぞろいしている。その中にはミューの姿もあった。
エレンは村人たちの人混みの中で立ち止まった。ふと背後を振り返り、慣れ親しんだ診療所、村の景色を目に焼き付ける。いつ帰れるかわからない。もしかしたら、もう二度と帰れないかもしれなかった。
エレンは突然背中を押された。振り返ると、そこにはミューがいた。
「ほら、ジョンたち行っちまうよ」
ミューは腕を組み、目を閉じていた。
エレンは「うん」とうなずき、ランドクロスへ走った。その足音を聞き、ミューは診療所に戻ろうと踵を返した。しかし、なぜか足音はミューの元まで帰ってきた。
ミューが振り返ると同時に、荷物を降ろしたエレンがミューに抱きついた。
エレンはミューの白衣に顔をうずめ、ぼそりと呟く。
「ありがとう。お母さん」
エレンは締め付けるようにミューに抱きつき、再びランドクロスへ駆け出した。背後では村人たちが手を振っていた。エレンはそれに答え、迷わず車内に飛び込んだ。
マフラーが煙を吹き上げ、エンジンの駆動音が響きわたる。キャタピラーがゆっくりと回転を始め、ランドクロスは村を出た。
子どもたちは車窓から身を乗り出し、村人たちに別れを告げた。
ランドクロスは少しづつ加速し、森の中の一本道を走っていった。
ランドクロスが見えなくなった頃、ミューは隣で車椅子に座っているアンナに聞いた。
「よかったのかい?」
アンナは小さくうなずいた。今の自分がついていっても足手まといになるだけだし、一層寿命を縮めるだけだと理解していた。
「ドクター、私、療養します。病気治して、いつか必ず皆に追いつきます」
アンナは決意した。
すると、フランク夫人がアンナの肩を叩いた。フランク夫妻はこの森を安住の地と決め、ランドクロスを降りたのだった。
ミューは「そうだね」とどこか上の空で呟き、アンナの車椅子を引いて診療所に帰っていった。
エレンはソファーに腰掛け、車窓から元来た道を眺めていた。刻まれた轍の伸びる先は木陰で薄暗く、村は既に見えなくなっていた。
緑の景色が過ぎ去っていく中、エレンの脳裏にはライカの言葉が繰り返し再生されていた。
〝人間とクリーチャーはわかりあえなイ〟
シリウスはきっと、優柔不断だった自分への規範となるべく森に帰る道を選んだのだとエレンは思っていた。
それでも、10年以上共に過ごしたシリウスとの別れがあんな形だったことが、エレンには唯一の心残りだった。
物思いにふけるエレンとは対照的に、車内は騒々しかった。
ラビが鳥かごに入るのを嫌がり、車内を飛び回っているのだ。イリーナはゴランと共にすっかり眠り込んでおり、テルとジョージ、レフがラビの対応に追われていた。
「……ったく!なンで連れてきたンだ⁉︎」
「ミストラルは親がいないと、野放しにしても死ぬだけなんですよ!」
イライラするレフにジョージが解説した。
ラビは三人の手をついばみつつかいくぐり、やがて腰掛けていたエレンの腕にとまった。そのまま暴れるかと思いきや、ラビは急に大人しくなり、イリーナに対してと同様に甘えるような声を出した。
エレンは外を眺めたまま、無意識のうちにラビの二つの頭を撫でた。
男三人が呆然とする中、操縦室からカーネルの声がした。
「起きてるやつだけでいい。こっちに来て、運転の仕方だけ覚えてくれ。さすがに俺だけが運転し続けるのはキツイ」
テルは目を輝かせて操縦室へ向かった。
ジョージとレフはつくづくゴランが寝ていてよかったと思いつつ、のそのそと歩き出す。
エレンもそれに続こうとした。すると、どこからか狼の遠吠えが聞こえた。
エレンは窓から身を乗り出し、耳を澄ませた。
それは、確かにシリウスの声だった。それだけではない。他の狼たちの遠吠えも聞こえる。遠吠えは森全体に響き渡り、やがて空へと消えた。
操縦室からカーネルの呼び声がした。
エレンは目を潤ませ、頬をほころばせた。
「じゃあね」
エレンはソファーから立ち上がった。噛まれた左腕を振り、操縦室へと走る。その左腕には、一切の歯型がついていなかった。
次第に窓に映る緑は減っていき、キャタピラの下は生い茂る草原から砂漠へと変わった。
ランドクロスは森を抜け、狼たちの祝福を受けながら、荒れ果てた世界へと帰っていった。
[A.D.2195 / 1 / 10]
【ポプラの民編】END
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その街は昼間だというのに薄暗かった。
街全体を灰色の瘴気が覆い、蔓延した放射能が生きとし生けるものの命を蝕む。
そんな死の街を、五人の帝国兵が銃を携えて進んでいた。兵たちはいずれも最新式の防護服を身にまとい、その上に重層な鎧を重ね着している。常に四方に目がいく陣形を組み、裸眼では不明瞭な行き先を赤外線ゴーグルをもって確認する。
「本当にいるんですかね?」
新兵が腕のガイガーカウンターを見ながら呟いた。カウンターの針はイエローゾーンを指している。
隊長は背後を振り返り、眉間にシワを寄せた。
「シッ!先遣隊との連絡が途絶えたのはこの辺りだ。近いぞ」
「でも、こんな放射能の濃いところに人が住めますかね?住めやしませんよ。クリーチャーならともかく……」
不可解な任務に新兵は首をかしげた。
「目標が人間と決まったわけじゃない。新手のクリーチャーかもしれん。なんにせよ、先遣隊がこの辺りで消息を断ったのは事実だ。何かがいる。気を引き締めろ」
隊長は冷や汗をかきながら言った。
新兵は腑に落ちなかった。強力なクリーチャーはここよりずっと先の危険区域に生息しており、この辺りのクリーチャー程度なら新兵の自分でも相手にできる。危険区域のクリーチャーがこの警戒区域までやってくるのは考えづらい。当然人間も。にも関わらず、先遣隊はここで全滅していた。もうひとつ不可解だったのは、先遣隊が残した最後の通信だった。
「でも隊長、先遣隊は『人影を見た』って言ってるんですよね?もし本当なら……」
「幽霊……とか?」
女性兵が冗談めかして言ったが、その顔に余裕はなかった。
霧に包まれた街に入って20分ほど経っていたが、女性兵は先ほどから奇妙な気配を感じとっていた。それが何かはわからなかったが、自分たちはずっと追われているような気がした。
荒れ果てた廃工場の街を歩くこと10分。白かった霧が次第に黒みを帯びてきた。爆心地に近づいているのだ。
細い道路の両脇には今にも倒壊しそうなビルがそびえ立ち、視界はスモッグでどんどん悪くなる。
「あ……」
新兵が赤外線ゴーグルを覗いたまま、突然立ち止まった。前方に誰かが倒れている。
それは、先遣隊の隊員だった。既に死亡しており、背中に三本の爪痕がある。
「深い……」
隊長たちが死んだ兵を調べる中、女性兵はすぐ近くに多数の足跡があるのを見つけた。
ライトを当て足跡を追うと、それらは全て、ビル同士の間にある地下への階段へと続いていた。全て同じ人間の足跡である。
どこからか鐘の鳴る音がした。
女性兵は首をかしげた。
その時、背後から殺気を感じ、女性兵は息を飲んで振り返った。
「……どうした?」
隊長が小声で聞いた。
女性兵は左手にある廃ビルの割れた窓を見ていた。
「いや……今、何かがいた気がして……」
五人全員が同じ窓を見上げる。特に変わった様子はない。赤外線ゴーグルにも反応はない。
「んだよ……おどかすなよ!」
新兵が汗をかきながら女性兵を小突いた。
他の兵たちも引きつった笑みを浮かべ、恐怖を紛らわそうと乾いた声で笑い出す。
その五人の背後に、レインコートは立っていた。フードをかぶり、ガスマスクを着けているため顔は見えない。その両腕には三本爪の手甲鉤が着けられ、鋭い刃が鈍い光を放っていた。
~ To be continued to Chapter 4 ~