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(story.26)ある事件

帝国議員、呉・暘谷(ゴ・ヨウコク)氏が姿をくらましたのは、もう三年も前のことで、事が起きたジーリン区でも、そのことは市民たちから忘れ去られていた。

ヨウコク氏は物言いのはっきりとした、孤立を恐れぬ正義漢だった。
軍隊がとり仕切る絞首刑の場に乗りこんで、死体に石をぶつける民を止めたり、「貧困層よ、目醒めよ!」と書かれたビラを鉄工所の煙突から町中に撒いたりして、何度も新聞の一面を飾っていた。そして、あまりにもヨウコク氏が逮捕されるので、次はいつ軍の御用になるのかと賭け事まで催される始末だった。

こうしたことから、このお騒がせ者は、良くも悪くも下級市民から支持を得ていた。それゆえ、氏の失踪を知った市民たちは騒然とした。氏のスキャンダルが明るみに出てから一週間たらずのことだった。


[A.D.2192 ジーリン区都 吉林市]

ジーリン区は帝国の北に位置する工業区域だ。かつては帝国発端の地として栄華を極めたが、首都が南の大連に移ってからは衰退の一途をたどっている。

区都 吉林市は「旧都」と呼ばれる。
首都だった時代からこの地に住む者たちが、かつての栄光を忘れられずにそう呼ぶのだ。

旧都の中心には、汚濁した川に囲まれた古いビル郡があり、ここが区の行政府として機能している。その周りにはスラム街が広がり、工場から巻き上げられる黒煙が、曇った空に溶け込んでいる。
常にこの街の空を覆う黒雲は、スラム街から発生したものではない。吉林市の東には、旧世紀に建てられたとされる廃工業区域があり、そこから発生するスモッグが街まで流れてくるのだ。そのせいで旧都には年中、白い霧のようなものが立ち込めている。

廃工業区域は一般的に「死の街」と呼ばれていたが、一部の勇敢な若者たちからは「轍の街」と呼ばれていた。


「う……う……」

ボロボロの背広を着たヨウコク氏は、酒と怒りで顔を赤らめ、新聞を握りしめた。呂律の回らない言葉を呻きながら、フラフラと夜のスラム街を歩く。

「あんらものデタラメら!何かの間違いら!」

ヨウコク氏は新聞を湿った地面に叩きつけた。日中、街に日が差すことがないため、あちこちに水たまりがあった。


一週間前、帝国新聞号外の見出しにはこうあった。

〝市民派の熱血議員 ヨウコク氏、『夜の討議』!掲げてきた抱負は偽善か⁉︎〟

それは、0時を伝える鐘の後、氏が夜の街をうろついたことを報じるものだった。氏が新しい法案を通す直前だったこともあり、新聞は飛ぶように売れた。追ってラジオでもこの件が報じられ、メディアには多数の目撃談が寄せられた。

それは、長年スラム街の救済を掲げてきた氏を失墜させるに十分だった。

多くの市民はこれにショックを受け、街中の大衆酒場は三日三晩、件の談義で大盛況だった。
賭けに勝った貧困層の者たちは大喜びで賞金をせしめるも、どこかヨウコク氏に期待してもいたので、興ざめして賭けはこれっきりにするのだった。
しかし、一部の識者たちはこの件に首をかしげ、憲兵隊や秘密警察に見つからないよう、街角に身を寄せ合った。

奇妙な点はいくつもあった。
まず、新聞に肝心の証拠写真が載っていないこと。一人の議員の失態を報じるには、いささか大々的過ぎること。そして何より不可解だったのは、氏のアリバイを立証する者が何人か現れたことだ。

ヨウコク氏自身、このスキャンダルには眉をひそめた。酒癖の悪さから時おり記憶が飛ぶことはあっても、0時の鐘より前には帰宅する習慣をつけている。身に覚えのない話だった。

結局、新しい法案は取り下げられた。
そして氏は、街を歩けば後ろ指をさされることとなった。
しかし、事はそれだけでは済まなかった。

氏は突如として議席を取り上げられ、ヴォストーク区への左遷を命じられたのだ。身の潔白を証明しようとした矢先のことだった。行政府へ駆け込むもまともに取り次いで貰えず、左遷の日程が迅速に決まった。


なぜこんな理不尽なことが起きたのか、ヨウコク氏にはまるで理解ができなかった。左遷される前夜、氏は慣れ親しんだ旧都をさまよい歩き、ここでの日々を思い出した。

身一つで首都からやってきたこと。
議席を手にしてからは数少ない貧困層の支持者として働き、議員たちからは異端視され、メディアからは偽善者扱いされたこと。
長年かけて市民からの信頼を勝ち得え、そしてついには、最貧層に参政権を与える法案を通すところまできたこと。
失ったものを思い返すほど、悔しさが込み上げてくるのだった。


氏は気がつけば走っていた。
なぜこんなことが起きたのか、納得はいかなかったが何となく予想はついていた。
氏は歯を食いしばった。

(今の自分に行政府の決定を覆す力はない。しかし、潔白を証明する手は何かあるはず)

たとえ左遷されようとも、時間をかけて再起の機会を伺おう。そう決意した。


「……ッ!」


氏は何かにつまずき、水たまりの上にべしゃりと倒れこんだ。巨大なくぼみのようなものに足を引っ掛けたのだ。痛みと汚水の冷たさで酔いが覚める。
氏は舌打ちして起き上がったが、そんな苛立ちは周りを見渡した途端に吹き飛んでしまった。

氏は見慣れない工業地帯に立っていた。
周りには人っ子ひとりおらず、濃い瘴気に覆われている。不明瞭な視界の先には、うっすらと廃工場のシルエットが見えた。自分がどこに立っているのか、氏はすぐに予想がついた。

急いでポケットの測定器を探るが、見当たらない。走っている最中に落としてしまったか、転んだ際どこかへ飛んでいってしまったのか。
「死の街」は濃い瘴気によりスラム街よりも視界が悪く、元来た道はすでにわからなくなっていた。
氏は戦慄した。

「……!」

氏は息を殺した。何かが呼吸するような音を聞いたからだ。

そっと周りを見渡すが、瘴気で何も見えない。クリーチャーかと思ったが、生き物らしきシルエットも見当たらない。聞こえた呼吸音にしてもどこか不自然だった。
周囲には相変わらず自動車の残骸や黒焦げた街路樹が点々としている。見上げれば廃ビルが聳え立ち、上の方は濃霧で見えなくなっていた。

街に一陣の風が吹いた。すると、どこからか建物が軋むような音がした。まるで街全体が唸りを上げているかのようだった。

氏は背筋が寒くなり、つまずいたくぼみから元来た道を推測して駆け出した。

そのくぼみが巨大な「轍」であったことは、氏には知るよしもなかった。



翌朝、珍しく霧が薄く、ぼんやりと陽の光が差し込む雨上がりの旧都。ヴォストーク区行きのバスが、定刻通り行政府に到着した。

バス停にヨウコク氏は現れなかった。
逃亡が疑われ捜索隊が駆り出されたが、結局行方はわからなかった。
事情を知った一握りの市民たちは不思議がり、噂を囁いた。しかし、それも次々に報じられる新しいニュースに取って代わられ、市民たちの興味は次第に薄れていった。
氏の失踪がメディアで報じられることはなかった。



~To be continued~

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