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(story.32)追跡者

テルは気がつけば逃げ出していた。兵士の一人が一瞬、自分の腰の光学刀に目をやるのがわかったからだ。この街で武器を持ち歩くことが御法度であることは立ち寄った店で聞いていたし、そうでなくとも自分は手配中の身なのだ。

案の定、怪しんだ兵たちがテルを追ってくる。この霧の街をうろつくスラヴ人などそうはいないし、ましてやましいことがないなら逃げる必要などないからだ。追ってこないはずはなかった。テルはようやく、とっさに逃げたことを後悔した。

「待て!!」

……と言われて待つわけもなく、テルはひと気のない市街地を駆けずり回る。何度か同じ目に遭っているので逃げることには慣れていたし、濃霧と雨の目くらましもあって、逃げおおせるのはそう難しくはなかった。


数分後、テルはゴミ箱の中に身を潜めていた。他の隊にも連絡がいったらしく、時折、目の前の通りを何人かの兵が通過していった。

テルは蓋が半開きになったゴミ箱の中で目を光らせ、通りにひと気がなくなるのを見計らうと、ゴミ箱から猫のように飛び出して路地裏に滑り込んだ。


濡れそぼった換気扇から異音がし、通気口から煙が吹き出る薄汚れた路地裏で、テルはようやく一息つくことができた。

「……くっさ!」

鼻をつんざくような異臭に、テルは吐き気を催した。落ち着いたことで、ようやくそれが、自分から発せられているものだと気づく。
ズボンに得体のしれない小骨や、果物か何かの皮が付着している。大急ぎでヤスリのように荒れた壁にズボンを擦りつけると、嫌な音がして、ズボンに切れ目が入った。

テルはなんだか腹が立ってきた。今朝から何も食べていないことも手伝い、猛烈なストレスが押し寄せてくる。胃が締めつけられるような空腹と疲労に耐えながら、テルは今後のことを考えた。

エレンは見つからない。ジョージも見つからない。ランドクロスは不調で動かず、しかも、捜索隊があちこちにいて身動きすらとれない。

八方ふさがりの現状に苛まれていると、大きく腹が鳴った。腹は満たされることを絶え間なく望む。

「……くそ」

テルは歯を噛み締めながらへそを叩いた。
すると、表の通りで声がした。

「見つかったか?」

「いや……だが間違いない」

「そう遠くへは行ってないはずだ。急げ」

兵たちだ。四、五人の兵が話し合っている。
テルは路地裏から顔を覗かせ、それを見ていた。その間にも腹は鳴りつづける。

(静まれ……!静まれ……!)

雨音で聞かれるはずもないのだが、それに気づく冷静ささえ、今のテルには欠けていた。
やがて兵たちは一言二言言い合うと、二手に分かれてテルの視界から消えていった。

通りに兵がいなくなると、テルは胸を撫でおろした。今度見つかったら、正直逃げおおせる自信がない。かといってここに留まるわけにもいかず、どうしたものかと路地裏に視線を戻そうとしたときだった。テルはハッと息を飲んだ。

テルは表通りを覗き込んだ。霧で生じた幻覚か何かかと思ったが、どうやら違うらしい。じっと息を殺し、目を凝らす。

レインコートを着た何者かが、まるでカラスが電線に止まるように建物のへりに立ち、無言で通りを見下ろしている。顔はフードで隠れて見えなかったが、紛れもない、数分前にテルを兵たちのキャンプまで誘導した者だ。

(あれは……!)

テルは息を飲んだ。
すると、レインコートの人物はゆっくりとテルの方へと顔を向けた。

テルはとっさに顔を引っ込めた。高鳴る心臓の鼓動も消す勢いで気配を押し殺す。見られたかどうかはわからないが、何にせよ、ここにもあまり留まらない方がいいと思った。見られないように慎重に、テルはそっと通りを覗く。

(……!)

テルは目を瞬いた。
建物の上にはすでに、レインコートの人物の姿はなかった。

雨音だけがする中、テルは呆然と建物を眺めた。すると、背後で音がして、テルは焦って振り返った。
片目のない猫が落ちている魚の骨を見つけ、器用に咥えあげている。
テルは安堵した。そして同時に腹が鳴る。テルはズボンについていた何かの皮をつまみ、顔の前まで持ってきた。するするとした滑らかなそれは、りんごの皮に見えなくもない。空腹に堪えかね、テルはそれをかじった。

(とにかく、親父たちのところに戻らないと)

謎の皮を吐き捨てながら、テルは暗い路地裏を進んでいった。


路地裏は驚くほど静かで、行けども行けども出会うのは野犬と野良猫、それに建物の隙間にうずくまって雨を凌ぐ衰弱した浮浪者だけだった。しかし時折、表の通りを兵たちが駆けていったので、テルは路地裏をまっすぐ進むしかなかったし、一度だけ正面から兵たちがやってきたので、テルはまたしてもゴミ箱に身を潜めなくてはならなかった。そうやって感の向くままに歩き続けていると、ようやく道が開けた。


テルが着いたのはひと気のない広場だった。
広場の中央には止まった噴水があり、周囲にそびえるビルに沿うように、今は使われていない屋台や市場の跡が残されている。どうやらそこはテーマパークか何かだったらしい。見上げれば朽ち果てた観覧車がそびえ立ち、霧の中でぎしぎしと唸っている。まるで人が突然消滅し、時間だけが経ったようだった。
観覧車の向こう側には川があった。対岸には行政府のビル郡とその光がうっすらと見える。随分と見当違いな方に来てしまったらしい。

広場には誰もいない。テルはそれを確認すると路地裏から飛び出し、止まった観覧車のゴンドラまで走った。

(エレンはあそこにいるのか……?)

対岸の光を見ながらテルは思った。もしかしたらすでに別の街へ移されているかもしれないが、まだこの街にいるとすれば、エレンが囚われているのはあの光の中のどれかだろう。

霧の中にうっすらと、ひときわ高い建物が見えた。建物のてっぺんにはサーチライトが取り付けられ、それが対岸の都市を円を描くように照らしている。都市部へと忍び込むのは難しそうだ。

変装、正面突破、輸送車への潜り込み、テルはいろいろと策を巡らせた。そしてそこまで考えてからようやく、自分が思っていた以上にエレンを助けようとしていることに気がついた。

テルにはなぜ、自分がそこまでエレンを気にかけるのかがわからなかった。砂漠で出会ってからまだ一週間ちょっとしか経っていない。そこまで仲良くなったわけでもないし、そもそもあの奔放でつかみどころのない態度が、たまにイラっとくることすらあったくらいだ。にも関わらず、テルは空腹も忘れてエレンのことを考えていた。

「エレンは、おれにとっての何なんだ?」

呟いたそのとき、テルは目を見張って背後を振り向いた。

何かの音を聞いたわけでもない。人影を見たわけでもない。ただ、「気配」だけははっきりと感じることができたのだ。しかし、周囲を見渡しても何もいない。深い霧の中でも動くものがあればそれを見ることはできた。
テルは腰の光学刀を抜いた。

「ひと?」

背後からの囁くような声に、テルは身構えた。
気がつけば、テルの刃圏ぎりぎりのところに人が立っている。

病的にやせ細った少年だった。灰色の半袖シャツと短パンから小枝のような四肢を出し、傘もささずに立ちすくんでいる。
いつの間にこんなに接近されたのかとテルが度肝を抜かれていると、切っ先の少年は長い前髪から目を覗かせた。鋭く細い目だった。

「な……誰だ!?」

テルが慌てて問いただす。
少年はテルと同じくらいの年頃に思われるが、妙にやつれた顔のせいで見かけ以上に大人びて見える。帝国兵には見えないが、片手には折りたたみ式ナイフが握られている。見えているのかいないのかわからないような細目を、テルに向けている。

「軍の刺客か……?」

テルは後ずさりながら訊いた。
少年は何も言わない。
テルは一層身構え、唸った。

すると、今度は別の場所から物音がした。
テルはハッと息を飲み、そちらを見る。

「いたぞ!あそこだ!!」

霧の向こうで遠い声がする。うっすらと見える帝国兵のシルエットが、仲間を手招いている。

テルは光学刀の柄を握りしめ、後ずさった。そして背後の少年を一瞥し、無言で駆け出した。

少年はテルが横切っても何も言わなかった。その場に立ち尽くし、横目でテルを追っていた。

テルにはそれが不気味だった。背後に消えゆく少年がどこまでも追ってきているような気さえした。そしてテル自身もまた、追ってくる兵たちを尻目に霧の中へと消えていった。


「くそ……」

帝国兵の一人が噴水の側で呻いた。雨で重くなったポンチョを揺らし、追いついてきた部下たちにテルを追うよう命令する。
すると、部下の一人が物申した。

「隊長、この雨での追跡は困難です。検問を敷き、街を封鎖した方が効率的かと」

部下の足元では、ところどころ毛の抜けた軍用犬が困ったように鼻を鳴らしていた。
隊長は舌打ちし、無線を手にした。

「検問なら既に敷いている。奴はもう袋のねずみだ。……ったく、ガキ一人になんてザマだ」


テルはひたすら走った。背後から兵たちが追ってきているのかもわからなかったが、体力の許す限り、どこともわからない旧市街の細道を駆け続けた。

やがて小高い丘の上にやってきた時、テルはようやく足を止め、辺りを警戒しながら腰を下ろした。
そこは街を一望できる小さな公園だった。絶壁から顔を覗かせると眼下にはビルの屋上が見え、それがどこまでも続いているのがわかる。霧で遠くの方は霞んでいた。

公園の一角に地図看板があることに、テルはすぐに気がついた。
地図を見回していると街の全容がなんとなくつかめてくる。自分はどうやら、随分とランドクロスから離れてしまったらしい。兵士がはびこる今来た道をもう一度戻る気にもなれず、テルはいったん街の外に出て郊外を迂回しながら父の元へ帰ることを考えた。

「軍が検問を敷いている。迂闊に動かないほうがいい」

背後からの声に、テルは跳ね上がった。


雨の中、足音も立てずにその少年は近づいてくる。先ほどの痩せた細目の少年だった。ただ、今度はガスマスクで顔をすっぽり覆っている。顔半分を覆う半月型のものだ。


テルは今度は冷静に、威圧するように腰の刀に手を触れた。

「誰だ……!」

「それは僕が訊きたい。スラヴ人がなぜ死
の街にいる?なぜマスクがなくても平気なんだ?」

テルはすぐには答えなかった。ただいつでも抜刀できるよう、きつく柄を握り直した。

「……人を探してる」

「人探しがなぜ軍に追われている?」

「……」

互いに黙する状態がしばらく続いた。
その間に、テルはふと思い当たった。

自分の首には高い懸賞金がかかっている。目の前の少年は賞金稼ぎか何かではないのか。金が目的
で自分を追ってきたのではなかろうかと

やがて、少年は一言だけ呟いた。

「あんた……〝例のやつ〟だな?」

テルはすぐにでも斬りかかれるよう、腰に力を溜めた。
目の前の少年はその貧弱な体に似合わず、どこか殺気のようなものを匂わせている。それは自分を強く見せようと威嚇しているのではない。戦いへの「慣れ」からくるものだと、妙に冷静沈着な少年を見てテルは感じた。

テルが警戒する一方、少年は無関心にテルを横切り、地図看板に目を通していた。看板についたテルの指跡を見て少年は言った。

「なんだ、『ファンラーグ』の辺りか」

テルは訝しげに尋ねた。

「あんたは誰だ?軍の関係者なのか?」

「違う」

細目の少年は振り返って即答し
た。


「……というよりむしろ逆」

「逆?」

テルには意味がわからなかった。ただ、
いつでも振れるよう力んでいた腕が緩んだ。その言葉には何か期待できるものを感じてしまった。

その時、テルは少年の右腕に、緑の星型の刺青があることに気づいた。
少年は辺りを見回し、そっと囁いた。

「軍より先にあんたと接触できてよかった、テル・アーウ
ィング。ついてこい、案内したい場所がある」



~To be continued~

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