ジョージの日記
[2179年]若き僕の懊悩
セルゲイは飽き飽きしていた。早くこの不自然に静かな教室を飛び出したかった。
教壇では、担任教師が黒板を叩きながら、差し迫った「職業適性試験」について説明している。しかし、未来が保証されている自分にはどうでもいいことだった。
「知っての通り、このIGでは17歳になると成人として認められ、管理者との面接とペーパーテストの後、各自が最も適した職を任されます」
先生は慣れた口調で、食い入るように黒板を見つめる生徒たちに言った。しかし、生徒たちは実際のところ話など聞いていない。彼らは時々、セルゲイに畏敬の目を向けている。セルゲイが昼寝でもしていれば、その隙に私語でもしようという腹づもりだ。
決められた授業。決められた人間関係。決められた未来。この地下に広がる小さな王国、「イワーノフグラード(IG)」では、全ての人間の行動が管理され、それと引き換えに、安定した生活が約束されている。その安定が、16歳のセルゲイ・イワーノフには最高に煩わしかった。
先生が長ったらしい説明を終えると同時に、終業のチャイムが鳴った。たちまち教室は雑踏に包まれる。
セルゲイがそそくさと荷物をカバンに詰めていると、先生が近づいてきた。
「いやぁ、ありがたいですな4代目。4代目がいると緊張感があって」
先生は屈託のない笑顔だったが、その言葉が本心なのか単なるおべっかなのか、セルゲイにはわからなかった。
「はは、先生の説明がお上手なんですよ」
つい反射的に笑顔を作り、心にもないお世辞を述べる。そうやって一言二言、社交辞令の応酬を済ませると、セルゲイは足早に出口へ向かった。すると今度は、ゴマを擦る同級生たちに囲まれた。
「へへ……セルゲイさん、よろしければ管理層までカバン、お持ちしますよ?」
セルゲイはこれまた笑顔で対応する。しかし、内心では不快感が渦巻いていた。
(やめてくれ。お前たち、ほんの数週間前までは僕に無関心だったじゃないか。それが試験が近づいた途端……)
うんざりしつつも、笑顔のまま同級生たちを振り切る。
教室を出ると、セルゲイの目に見慣れた光景が飛び込んできた。その光景がよりセルゲイの気を滅入らせた。
地下世界には、あちこちに赤いレンガ造りの建物が立ち並んでいる。目の前の大通りは噴水がある広場まで伸び、上を見れば巨大な天井が、存在するであろう「空」を覆い隠していた。鉄でできたその天上は、今にも落ちてきそうな圧迫感がある。
(帰ればいくらでも食べ物がある。暇になったらゲームでもやればいい。特に辛いわけじゃない。だがなんだ?この焦燥感は)
セルゲイは「空」というものを知らない。知っていたとしても、知らぬふりをするしかない。それが、代々管理者として地下世界に君臨してきた、イワーノフ家の掟だった。
「何?……『地上』を見たい?」
管理層の自宅にて、父は鋭い目でセルゲイを見た。嘲りと失望が入り混じったような父の視線に、セルゲイはたじろいだ。
「バカなこと言ってないで、宿題でも済ませなさい。お前はもうじき管理者になるんだろ?」
「そうですけど……」
父は豪華なワーキングチェアに腰掛け、書類を処理している。その背後には、巨大な機械が設置されていた。機械にはいくつものモニターが付けられ、上層・下層のあらゆる場所を映している。
「そうだ、お前婚約者選びは終わったのか?そろそろハッキリさせにゃならんぞ」
父は唐突に切り出した。そして座ったまま、部屋の隅の棚を指差した。棚には立派な装幀のファイルが置いてある。
「新しいリストだ。見ておきなさい」
父は地上の話などしたくないようだった。
セルゲイはリストをひっつかみ、パラパラとめくった。やたら化粧の濃い女の顔が、ずらりと並んでいる。中にはクラスメートの顔も見受けられたが、全員親しい者ではなかった。
(僕はこのまま、何の当たり障りもない人生を送るのか)
ひと気のない夜、セルゲイは上層の広場にある長椅子に寝転がり、ボーッと本を読んでいた。既に就寝時間を過ぎ、辺りは静寂に包まれている。聞こえるのは、止まった噴水から雫が滴る音と、1歳の子どもをあやす女の声だけだ。
「よーしよしよし……」
セルゲイは時々、こうして夜中に広場に来ては本を読んでいた。その際、よくこの女と出くわした。
清掃の行き届いた「上層」にあって、女のボロ雑巾のような格好は暗がりの中でもよく目立った。おそらく、「下層」の住人なのだろう。それも、こんな時間に上層にいるということは、この地下で最も酷な職にあてがわれた者だ。
二人は決して話すことはなかった。互いに顔は知っていても、恨みつらみはなくとも、身分的な確執がそうさせた。下層は底辺の巣窟、ロクでもない人間しか住んでいない。セルゲイはそう言い聞かされて育ったし、彼女もおそらく、その逆のことを言われてきたのだろうと思った。
すると、突然子どもがグズり始めた。やがて甲高い悲鳴が静寂を破る。辺りの家のいくつかの窓が、ぽつぽつと明かりを灯した。
女はなんとか子どもを鎮めようとしたが、子どもは一向に泣き止む気配がない。
セルゲイは本を閉じた。こうもうるさくては小説など読めない。かと言って今日は帰りたくもなかった。仕方なく立ち上がり、辺りを警戒する。
「あの……これ、よければ使ってください」
セルゲイは、本を女に手渡した。それは、決して家から持ち出してはならない本だった。
女は泣きわめく子どもの口を押さえながら、口をあんぐりと開けた。
「『地上伝説』っていう子ども向けの本です。読み聞かせてあげてください」
「よろしいのですか?こんな貴重なもの」
その時、セルゲイは初めて女の顔を見た。下層の人間と真正面から向き合ったのさえ、初めてだったかもしれない。
女は想像以上に若かった。二人に年の差はほとんどなく、この若さでこんな夜中に上層へ送られていることが、セルゲイには心底哀れに思えた。しかし、その汚い身なりの女の瞳は、暗闇の中ではっきりと輝いていた。腕の中の1歳児と比べても遜色ないほどに。
それ以来、二人は少しずつ話すようになった。口数は会うたびに増え、セルゲイは5日目にしてようやく、女の名前がレーナであることを知った。連れ子はアンナといい、やはり父親はいないようだった。
「アンナを学校に通わせたいの」
ある晩、レーナはそんなことを呟いた。下層の人間が学校に通う。上層の者はおろか、下層の者にさえ笑われそうなセリフだ。「なぜ?」とセルゲイは尋ねる。するとレーナは、整った顔に苦渋を滲ませた。
「この子が立派な職に就けば、管理者の横暴を、少しは改善できるかもしれない……」
セルゲイの心臓が大きく脈打った。それを悟られぬよう息を止める。
「あなたはもうすぐ成人よね?何になるの?」
レーナはふと尋ねた。
セルゲイは口ごもった。レーナは自分の素性を知らない。身の上を知られ、今の関係が崩れるのは憚られた。
「僕は……まだわからない。管理者が決めることだから」
レーナに顔を覗かれ、セルゲイは咄嗟に作り笑いを浮かべた。
「それで、決まったのか?」
セルゲイが帰宅するなり、父は開口一番にそう訊いた。最近の父の口癖だった。父はなかなか婚約者を決めない息子にやきもきしていた。
「頼むぞ。これじゃ安心して引退できん」
「父さん……やっぱり上層の人とは……」
父は読んでいた住人名簿を机に放った。そしてフンと鼻息を荒げる。
「セルゲイ、お前は管理者になるんだ。このIGの頂点に立つんだ。それが貧困……いや、下層の人間と婚約でもしてみろ。娘を差し出してる有権者たちの立場はどうなる?」
父の発言に、セルゲイは唇を尖らせた。しかし、下手に反論してレーナのことを悟られるわけにもいかず、ただ黙っているしかなかった。
「新しいリストを作っておいたが、誰かいい人がいるならそれで構わん。早く決めなさい」
父はファイルを手渡したが、セルゲイがそれを開くことはなかった。何も言わず自室へ行こうとすると、背後から父は言った。
「あと1ヶ月で卒業だ。それまでにな」
それからしばらく経ったある晩。セルゲイはいつもの広場で、レーナと会っていた。
珍しく就寝時間前の密会で、まだ噴水から水が湧き出ている。いくつかの建物は消灯しておらず、窓から灯りが漏れていた。おそらく同級生たちが、職業適正試験に向けて追い込みにかかっているのだろう。
「レーナ、外に行こうか」
セルゲイは唐突に切り出した。
レーナはまた口をあんぐりと開けた。セルゲイはあまり冗談を言わない性格だと知っていた。
「外って……『地上』?」
レーナは半信半疑で訊いた。
セルゲイはうなずいた。そして、ポケットから一枚の写真を取り出す。古ぼけた、所々焦げ目のついた写真で、『地上伝説』と同様、家から持ち出すことを固く禁じられた品だった。
「なんとなくだけど、この地下にはもう時間が残されてない気がする。いつか、『地上伝説』の主人公みたいな革命家が現れて、この小さな世界を壊してしまうんじゃないかな」
その写真には、まだ豊かだった頃の地上が写っていた。巨大な水たまり、食べ物のなる木々、青い空、そこに息づく人々。陰惨とした地下とは、比べものにならない美しさだった。
セルゲイは写真をレーナに渡した。
「でも都市伝説でしょう?地上って」
レーナは写真を見てもなお、信じられなかった。心のどこかであったらいいなと思っていたものの、しょせんは夢物語だと信じていた。
しかし、セルゲイは首を横に振った。
「あるよ。昔の人間は地上で暮らしてたんだ。『地上伝説』に書かれていることは本当さ」
セルゲイの顔は真剣そのものだった。
その顔と写真を、レーナは交互に見た。
「セルゲイ、あなたって一体……?」
セルゲイは覚悟を決め、レーナに写真の裏側を見せた。すっかり黄ばんだ写真の裏には、消えかかったインクでこう書かれていた。
この写真を、未来の子孫たちに送る。
惨劇が繰り返されないことを願って。
2056年8月21日 ガブリエル・イワーノフ
レーナは目を疑った。
ガブリエル・イワーノフ、最初の管理者としてIGに伝わる名だ。そして、その人物が遺した写真をセルゲイが持っているという事は……。
「曽祖父が撮ったものらしい。写真が趣味だったみたいだね」
セルゲイは苦笑し、レーナから目を逸らした。
「黙ってて悪かった。そういうことだよ」
レーナは何も言わなかった。ただ黙って、写真を見ている。
セルゲイもそれ以上は何も言えなかった。
気まずい沈黙が続く中、ゆりかごの中のアンナが目を覚まし、泣き始めた。レーナはゆりかごを揺らしながら、ボソッと訊いた。
「ひとつわからないんだけど……」
セルゲイは息を飲んだ。
「どうして地上に行きたいの?ここで管理者になった方が、よほど楽しく暮らせるのに……」
セルゲイはとてもそうは思えなかった。振り返り、レーナをジッと見つめる。
「確かに、父や上層の者からすれば、今の生活を失うのは惜しいかもしれない……でも僕は違う。いつかここを出てやるんだ」
「なら、あなたが管理者になってから、ここの人たちを解放するのはダメなの?」
セルゲイは首を横に振った。それも考えたが、大きな問題があった。実は管理者は、既にかつての指導力を失いつつある。年々、上層の有権者たちの発言力が増し、彼らは今の生活を守らんと結託し始めている。依然としてイワーノフ家はIGの頂点ではあるが、それもいつまで持つかわからなかった。
「これからIGの溝はどんどん深くなる。下層は今より過酷な生活を強いられるだろうし、上層の権力は更に増す。逃げるなら今しかない」
セルゲイは立ち上がり、目の前の噴水を見つめた。いつの間にやら、湧き出ていた水が止まっている。どうやら就寝時間に入ったらしい。
セルゲイは意を決して、振り返った。
「僕は地上に行きたいんだ」
セルゲイの心臓は、かつてないほど高鳴っていた。しかし、それを隠す気もなかった。
「君と」
レーナは口をモゴモゴさせた。赤くなった顔を隠すように、巻き癖のある髪をいじり、ゆりかごの中を覗く。
「ありがとう。でも私にはアンナが……」
「アンナも連れて行けばいい!」
セルゲイは人目も憚らず叫んだ。
レーナは顔を上げた。
「なんなら、僕が先に地上へ行く。安全が確認できたら地下に戻ってくるから、そしたら……三人で一緒に行こう」
セルゲイは手を伸ばした。
レーナはその手をジッと見た。下層の、それも最底辺の生まれの自分が、まさか管理者になる男に誘われるとは、夢にも思わなかった。しかし、身分のことなど最早どうでもよかった。地上に出てしまえば、そんなもの関係ないのだ。
「ありがとう、セルゲイ」
レーナは赤くなった鼻を擦り、そっと立ち上がった。そして、セルゲイの胸に思い切り飛び込んだ。
レーナの心臓の鼓動を直に感じ、セルゲイは息を飲んだ。そして目を閉じ、二人は互いの全てを受け入れた。
〜後編に続く〜